死ぬまで海外ドラマ(死ぬ海)

アメリカ、イギリス、中国と欧州各国のドラマ。

"FUZE"海外ドラマ特集/感想 #1&#5  

記事番飛びますが、関連性のある二本の記事をまとめて。


#1
2010年代の海外ドラマ革命はいかにして起こったか? あなたにしか救えない「置き去りにされた日本」

タイトルの時点でそんな感じはしましたが(笑)、全体的には非常に業界業界した、"トレンド"と"映画"の威を借りて大げさに騒いでいるだけのつまらない記事。古臭いというか。
特集の編集意図を理解して書いているのか、意図自体がその程度なのか、まだ"#1"なので何とも言えませんが。

『ブレイキング・バッド』は「人気のある作品はとにかく続編を作り続け、人気がなくなった途端に打ち切る」というあの『ツイン・ピークス』でさえ逃れることができなかったテレビシリーズの鉄則を破って、シーズン終了の数年前からシーズン5で完結すると宣言。そしてその宣言通り、人気絶頂期に完璧なフィナーレを飾ってみせたことだ。そのことはつまり、それまで絶対的な力を持っていた放送局サイドとドラマ製作者サイドの力関係が逆転したことを意味する。


『ブレイキング・バッド』がどの程度"代表例"なのか分かりませんが、確かにそれが出来るなら、ドラマの作り方が変わるというか業界的な大きな変化だろうと思います。"次シーズンの予定が常に不安定"という伝統的なネットワーク(局)ドラマの難点は、従来のドラマの内容に基本的には満足している海外ドラマの固定ファンにとっても、やはりなかなか受け入れ難い、解消して欲しい問題ではありましたからね。

既存の形態で言えば、いわゆる「テレビ映画」「ミニシリーズ」と俗称されている古くは『ルーツ』とか『SHOGUN』とか(笑)、最近だとスピルバーグ&トム・ハンクスの『バンド・オブ・ブラザーズ』みたいなタイプのものは、普通のシーズンドラマより少し短めの回数で「全〇回」と予めきっちり決まった中で構成されて、その分少し格調が高いというか"芸術的"な感じの作品が多いですね。それがもっと普通になるということか。
ただ一方で"明日"を知れない中"動き"ながら作っているドラマの特有の面白さ、あるいは低調に陥ったドラマが新しいアイデアで見事"立ち直った"瞬間の感動やその手腕への驚きというのも、"海外ドラマ"生活の意外と欠かせない楽しみだったするので、そこらへんは難しいところ・・・ではあるんですけどやっぱり作る側としては、予め保証されたものが欲しいでしょうね、それは理解せざるを得ません。(笑)

ただ結局「ミニシリーズ」が見たいというよりは「連続ドラマ」が見たいんでね、僕らは。だからフォーマットの入れ替えというよりは、既存フォーマットにおけるクリエイターの発言権向上という、折衷的な形で落ち着いてくれたら一番いいんだろうと思います。その為のプレッシャーとして"トレンド"が役に立つなら、結構なこと。

昨年、カンヌ映画祭はポン・ジュノやノア・バームバックがNetflixで発表する新作をどう扱うかで紛糾し、ジャン・リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーが寄稿していたことでも知られるカイエ・デュ・シネマ誌は年間ベスト1映画に『ツイン・ピークス』の新シリーズを選出した。


驚きの話ですが、これについては次の記事が詳しいのでそちらで。

Netflix『ストレンジャー・シングス』のダファー兄弟のように、「映画を作ることには興味がない」と公言する才能も今後ますます増えてくるだろう。


純粋にアートフォームとして、「映画」よりも「連続ドラマ」の方が優れている、という考え方。(多分)
ここらへんの"フォーム"問題の色々も、次の記事で。



#5
それにしても、これは「映画」なのだろうか?——配信ドラマ隆盛の時代に揺れる、20世紀を代表するアートフォームの特異点=「映画」という定義

余りにも色んなケースについて書かれているので、単純に列挙してみたいと思います。

Netflixが、劇場公開よりも、独占配信に重きを置き、劇場と配信で同時公開を最優先したがるのに対し、Amazonは、製作配給部門のAmazon Studioを有しているため、従来の形式に倣うように、劇場公開から一定期間を置いた後に配信する形式をとっている。


NetflixとAmazonの違い。または配信業者ごとに今後も出て来るだろう、"公開"フォームの様々な違いの可能性。

配信公開のみで、劇場公開の予定がない作品を、映画祭のコンペ対象にするのは、いかがなものか、と難色を示したのが、5月のカンヌ映画祭だった。
フランスでは、映画作品の配信は劇場公開から36ヶ月後以降でなければいけない、という規定がある。Netflixは、そこに配信先行公開の『Okja/オクジャ』(監督:ポン・ジュノ)と『マイヤーウィッツ家の人々(改訂版)』(監督:ノア・バームバック)の2作品を送り込もうとしたからだ。


これに関しては、そもそもフランスの「規定」自体が恐らく単に著作権保護的な目的で設定されているものであって、「劇場」という形式に習慣以上の特別な意味を付与するのは論理的に不可能だと思いますから、オープンになって行かざるを得ないと思いますけどね。

配信映画は、映画ではないのか、何をもってそれを映画と呼ぶのか、という問いかけは、同じカンヌ映画祭で最初の二話のみプレミア上映されたアメリカのケーブルTV局、ショウタイムが製作した(配信でも公開される)『ツイン・ピークス The Return』を通じて新たな局面を迎えることになる。

デヴィッド・リンチが全エピソードを監督したTVシリーズだ。(中略)
ところが、フランスの〈カイエ・デュ・シネマ〉と英国の〈サイト・アンド・サウンド〉の老舗映画批評誌二つが、2017年のベスト10で『ツイン・ピークス The Return』をそれぞれ、第一位と第二位に選出したのだ。


これはどちらかというと、「TV」と「映画」の境界、ですかね。ある意味では従来からある。
そこに「配信」が絡んで、具体的には「配信」映画が「映画」として認められていく方向性の中で、その「配信」によって「TV」用の作品も「映画」と繋がって同じ舞台に上がって来てしまった。
・・・元々「劇場」か「テレビ」かという形式に本質的な区別は難しい中しかし"業界"として別にやることで何となく蓋して来たのが、開いちゃったというか(笑)。まあデヴィッド・リンチだから起きたこと、ではあるんでしょうけど、でもいつ起きてもおかしくはなかった、少なくとも批評の世界では。

そしてもう一つの「ツインピークス」問題。
これはデヴィッド・リンチ自身による。

彼は4月の段階で「これは長編映画(feature)だ。18時間の長編映画で、18の部分で成り立っている」と語っている。


しかし、

『ツイン・ピークス The Return』は、形式的には、古くからのTVシリーズのフォーマットに忠実だ。(中略)
初回と最終回を除いて、基本的に、週1話放映だったので、エピソード間には1週間(ときには2週間のときも)の時間的猶予が与えられ、その間に、視聴者は、前の週(までに放映された)のエピソードの内容を整理し、自ずと来るべきエピソードでの展開に想いを馳せるということが繰り返され、習慣化されていたはずだ。
(中略)
これを映画だと言われて観せられた場合、視聴者側からすれば、矛盾というか倒錯を感じずにはいられないだろう。


はっきり言えば、最初にデヴィッド・リンチが余計なことを言わなければ、何も問題は無い気がしますけどね。(笑)
でも「映画」だと言ったから、「映画」コンペや批評の対象になったのかな、そんな単純なことなのかな。(笑)
それよりもむしろ、デヴィッド・リンチがそこまで"TVシリーズ"の形式にこだわってくれたのかという、そっちの感動が僕は大きいですかね。単に郷愁というよりも、その形式に"芸術"的なメリットがあると、そう判断してのことじゃないかと、推測したいところですが。
あえて「映画」ではなくて「TV」でやるならば、「TV」の良さを徹底的に活かそうと、昨今流行りのどっちか分からんようなもんは要らん!という。(頑固親父?(笑))

昨今のドラマ・シリーズ作品では、Netflixなどが提唱するような、一シーズンの全エピソードを一挙に同日公開し、"一気観(ビンジ・ウォッチ)"させるようなやり方が流行っている。むしろ、そのほうが長時間を要する一本の映画を観ている感覚に近いものを味わえるのではないか。ところが、リンチは、一シーズン分の作品を16週間かけて見せていったのだ。


だから、そういうことですね。(笑)
これ読んで気が付きましたが、最近AXNの特に"ミステリー"が、「最初に新シーズンを一挙放送してその後改めて週一ないし二放送を行う」ということをやっていたのは、Netflix的なものを意識してのものだったんでしょうね。
細切れに放送した方が"契約月"も稼げるのに、何の意味があるんだろうと不思議だったんですが。

まあ僕も何度もやってますが、「一気観」自体は悪くないですよ。ネットで見るならむしろ自然だと思いますし。
「生活」の一部として"放送スケジュール"が決まっている感じは慣れているし好きですけど、「一気観」独特の集中感もあれはあれで。
ただ問題は「一気観」が前提となる、あるいは「一話一話見る」というスタイルが完全にマイナーになった時に、今のテレビドラマの作り方、特に"サイクル"的な時間感覚が変わってしまうのではないかということ。必然性が無いですからね。それこそ「長い映画を区切っただけ」みたいになってしまうか、あるいは上でも言った「TV映画」的な感触の作品ばかりになるか。
一方で"ダファー兄弟"の話ではないですが、例え歴史的な偶然にしろテレビドラマが築き上げて来たスタイルに、表現上娯楽上の特有のメリットがあるということを、現代の作家・関係者が強く意識しているのなら、僕の心配は杞憂に終わるでしょうけどね。

とりあえずは"映画っぽい"作品をそれだけを理由に無闇にありがたがる傾向・批評を抑えてくれれば、後は勝手に上手くいく気がしています。
だって、面白いもの、"TVドラマ"。


後者のようなシネコンでの上映が似合うようなブロックバスターが、配信限定で公開された上に、Netflix歴代トップ・クラスのストリーミング記録を樹立してしまう。もはや、こうしたブロックバスター作品であっても、視聴者としては、シネコンのスクリーンではなく、定額制の枠内で、TVやPCモニターからスマホ画面に至るスモール・スクリーンで観れば、十分なのだろうか。


ここらへんは個人差、ですかねえ、あと世代差。アホな答えですが。
僕自身は「スクリーン」「大画面」で見ることには何のこだわりも、それどころかメリットも感じません。だから最近映画館に行ったのは、一部の旬な流行りものを除けば"3D"作品ばっかりです(笑)。それくらいしか、意義が。
だから筆者の嘆きを笑い飛ばしたいところではあるんですが、一方でじゃあスマホでいいのかと言われると、それはちょっと・・・。
でもそれが当たり前の世代は、確実に育っているわけですからね。だから僕も、人のことは言えない。笑えない。(笑)
まあスマホが嫌なのは、"小さくて迫力が無い"からというより、"疲れる"からですけどね。"想像力"芸術ですから、内容の受け取りそのものは、多分余り画面の大きさや視聴環境は関係ないだろうと思います。むしろそうであるべきというか。スポーツやゲームの方が、制約は遥かに大きいでしょう。

でも"あの"画面を前提にドラマを作れと言われたら、やっぱり少し、問題・変化は出て来るでしょうね。小さいよりは大きい方が、やはり選択肢は増えるでしょうから、なるべくなら大きい方で見る習慣が生きてくれた方が・・・と、かつて映画関係者も悩んだんですかね、テレビが出現した時に。(笑)
その前例からすれば、なるようになる、"制限"を利した新しいアートフォームが出て来ると、私情を押し殺せば(笑)言うしかないわけですけど。


以上。
ほんとのことを言えば、むしろ「配信」によって定義が難しくなったのは「"TV"ドラマ」の方ではないかと思うんですけど、とりあえず今回は、「映画」がテーマ。


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Posted on 2018/03/21 Wed. 21:51 [edit]

category: 全般

thread: 海外ドラマ(欧米) - janre: テレビ・ラジオ

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